2011年7月30日土曜日

伊良部投手に合掌

1996年の神戸グリーンスタジアム、オリックス・ブルーウェーブvs千葉ロッテマリーンズ。先発は長谷川滋利と伊良部秀輝の同い年の両投手。長谷川もなかなか好投したのだが、伊良部の球は速いしフォークは落ちるしでブルーウェーブ打線は手が出ない。「すごいピッチャーだなー」とマジマジと見て思った。
その後長谷川は降板し仰木監督得意の野村貴仁、鈴木平を繰り出す。後半伊良部から交代したピッチャーを攻略し結局オリックスが勝ったと記憶しているが、とにかく伊良部の凄さが一番印象的な試合だった。
その後伊良部、長谷川、野村、イチロー、田口とその時の出場メンバーから5人もがメジャーに移籍して一定の活躍をしたことからも当時のパ・リーグのレベルの高さ、試合の面白さがわかる。

その伊良部投手、僕のひとつ年下の選手がどうやら自殺した、というニュースはショッキングだった。
昔心斎橋の天ぷら屋さんで、隣に座ったガラの悪いお兄さんが、尼崎が地元で伊良部と友達だということをやたらと吹聴していて、伊良部も似た感じの人物であることは想像できたが、でも彼が野球では凄かったのは事実。うまくその道を順調に歩んでくれれば良かったが、色々な悪い周囲に惑わされていったのかもしれない。結果としてこういう不幸な終わり方をしたことは本当に残念である。野球をやることによって幸せになって欲しかった。

今でも思い出すあの剛球。伊良部投手に合掌。

2011年7月29日金曜日

雨季で病気が蔓延(?)

今週はかなり多くのスタッフが、咳をしたりして風邪を引いているメンバーが多いようだ。雨季には体調を崩す人が増えるらしい。衛生状態が悪くなるからだろうか。休暇をとって実家に1週間帰っていて人事マネジャーは「ゆっくり過ごすつもりが両親の風邪の看護でつぶれてしまった。」と言っていた。

そのうえ今朝来週のデリー出張の日程打ち合わせにデリーの営業マネジャーに電話して「How are you?」と話を始めると、「Not fine, I got Malariya then high fever.」と言われてビックリした。何でもバローダというところへ出張したときに蚊に噛まれてそれでマラリアを発病したらしい。注射を打ったので数日で治るだろうということだが、かなり身近なところにマラリアがあるということを改めて知った。

やはり雨季は衛生状態が悪くなる、蚊も発生しやすい、など病気が蔓延する条件が揃っているようだ。雨季に入って2ヶ月が過ぎたがまだ折り返し点、気を抜かずに体調管理に気を付けておく必要がありそう。

2011年7月22日金曜日

なんてすずしいバンガロール、インドの他の街とは違う

昨日まで3日間バンガロール(現在は正式名はベンガルールに変わっている)へ行ってきた。

ムンバイからバンガロールまでは1時間半のフライト。例によって20分くらい遅れてBoarding開始。機内でふと気づくと、なぜか僕の席の下にビニール袋が。そういえばムンバイのテロで3箇所あった内の一箇所はビニール袋に入っていた爆弾がゴミ箱で爆発したと言っていた気がする。いやだなー。「何も起こりませんように」と心で祈りつつ本を読んで過ごす。どうやら無事着陸。やれやれ。

空港に着くと大きくTOYOTAの広告。出たばかりのEtios Liva。さすが工場があるだけある。建物を出ると曇っていてすずしい。湿気もムンバイほどないし気温がかなり低い。インドでは今までない気候。これでも今はモンスーンシーズンだから雨は降るのだろうが、毎日雨ばっかしのムンバイから比べると快適な生活であることが想像できる。
後で訪問した日本人のお客さんも冬場は寒いこともあるけど、日本からの電話に「今日は寒いですわー」と言っても信じてもらえないらしい。日本は「インドは暑い」としか思われてないからね。

Electronics City
で何軒か企業を訪問したけど、途中の高速の高架部分やCity内部などインドとしてはまとも。皆無ではないがムンバイのようなスラムだらけ、乞食だらけとは違う。街中へ戻ってきても緑が多くなかなか雰囲気が良い。色々聞くと元々英軍が拠点を置いていた場所らしい。北西のボンベイ(現ムンバイ)へも、東のマドラス(現チェンナイ)へも行きやすい地の利があったのだろう。古都は120KMほど行ったマイソールだそうで、「この道を行けばマイソールに行ける」と国道を教えてもらった。いつか週末行ってくるか。

泊まったホテルはビジネス用でかなり安いのは良いが、枕が合わずマットも固くイマイチ眠りが浅かった上に2日目の朝は5時に前の道路で工事を始めやがって大きな音と部屋がガタガタ揺れるので眠れなくなってしまって、疲労が溜まってしまった。すずしくて気候的には快適なバンガロールだが泊まるホテルは次は違うところをリクエストする必要がありそうだ。

Etiosの好調な売れ行き、さらにハッチバックモデルLivaの追加で更なる販売加速、レンタカー需要などで堅調なボクも乗っているInnovaなどTOYOTAもまだまだ小さいとは言え急激に販売を伸ばしそう。Bangalore周辺の日系企業もつられて忙しくなるだろうか?

2011年7月14日木曜日

昨夜ムンバイでテロ発生。3箇所で爆発。

昨夜7時40分頃だっただろうか、まだ会社に残ってMonthly Reportをどうするこうする話をしていたら、ちょっと前からパソコンでニュースを見ていたっぽい同僚から「ムンバイでテロが起きた」だって。いやー、びっくりした。過去マレーシア駐在時代SARSHazeスマトラ沖地震の津波など色々あったが、自分の街でのテロは初めて。

情報収集しながら、現場はムンバイ南部の3箇所で、会社やアパートのある北部では起きていないこと、3箇所以降は起きていないことから、翌日ムンバイオフィスはクローズし自宅待機とすることをMDが決め解散。出張者と彼が泊まっているホテルに食事に行って、ホテルが取れればそのまま泊まろうかとも思ったが、会社近くのインドローカルのホテル2軒に当たった所、どちらも「今日は満室です」とのこと。こういうときに予約無しで泊まるのは止めているのかも。

日本でも報道されるだろうと思い、家に電話。僕の電話は問題なく通じた。ただローカルコールは人によってはつながりづらい状態となる。スタッフの安否確認を進める中どうやらみんな無事そう。

食事終了後、ホテル宿泊という選択肢もなくなりアパートへ。たまたまいつものドライバーがカゼで休みで、代わりのドライバーというのは、こういうとき何となく不安ではあったが何事もなくアパートへ着く。やれやれ。
「いつものドライバーもこれを知ってて休んだんやなかろうな?」とヘンな疑いの気持ちも湧いてくる。でもホントにカゼ声とセキだったし信用できるヤツと思っているので、そういうことは思っちゃいけないと思い直す。

まあアパートのある地区はテロの対象にはなりづらいだろう、また3箇所以外起きておらず警戒も強まっているだろうことから、まあ大丈夫と開き直り、ひととおりFacebookで状況コメントして1時頃寝ることにする。

翌朝6時頃目が覚めて、外を見ると朝から大雨。昨夜もこういう雨の中突然爆発が起きたんだろうと思うと痛ましくなる。早速ニュースをつけ状況確認。昨夜とほぼ変わらず死者21名負傷者131名との報道。現場の1箇所Zaveri BazarはCST駅のわりと近くの商店が並ぶ場所、近くは通ったことがあるが行った事はない。もう1箇所Opera Houseもムンバイ南部へ行くときにクルマで近くを通ることはあるが行ったことのない場所。最後のDadarは僕の住む地区から一番近く、Sea Linkという大きな橋を渡ったところの近く。2箇所はバイクで、1箇所はクルマで、それぞれビニール袋に入れた爆弾が18時50分から12分の間に次々爆発したようだ。夕方のラッシュアワーの人が多い場所を狙った卑劣なテロ。犯行ははっきりしないがパキスタンのテロ組織が疑われている。
個人的にはオサマが殺されたことと関連があるような気がしてならない。パキスタンのイスラマバードからムンバイへ移ってきた日本人シェフもオサマ殺害後急速にイスラマバードの雰囲気が悪くなったとのことを言っていたし。

負傷者は10箇所の病院へ搬送されている。Twitterで不足する血液型を求める情報が回ったらしい。どこの国も有事の際のTwitterでの情報シェアは有効なようだ。

今日は一日自宅待機。我が家のバカなインターネットはまた昨夜から止まっているので、こういうときのために用意しておいたこっちのポケットWiFiを活用しながら、情報収集と会社のメールチェックしつつ家でおとなしく過ごそう。

2011年7月11日月曜日

「生きる」ということ

先週火曜日夜、義父が亡くなった。間質性肺炎という美空ひばりが亡くなったのと同じ病気。
朝から「危ない」と聞いており、帰るべく飛行機は手配していたが、思ったより早い知らせ。仕方ないが間に合わなかった。とにかく、そのまま夜行便で成田へ。
水曜日の昼前に家に着いたが、義父は病理解剖をしておりまだ死亡診断書が出ておらず、お通夜やお葬式についてその時点では何も決まっていなかった。
1時間強ほどして病院から電話があり病理解剖が終わったとのこと。ここでようやく業者と連絡をし遺体を菩提寺である圓融寺に移送する話を始めた。30分後くらいに病院について義母と義妹は既に到着していた。遺体に対面したが非常に満足気な安らからな死に顔だった。
お医者さんから病理解剖の結果の説明があったが、片一方の肺は通常数百グラムのところが1KGにもなっていたそうだ。「肺が硬くなる」という間質性肺炎の特徴の一つらしい。その他の臓器についてはまだまだ十分だったようで、肺が原因での死亡ということになる。

業者に連絡をし40分くらい後に来てくれることになり、病院の先生や看護師さんなどに見送られ病院を後にした。僕らはタクシーで圓融寺へ。会場となる場所へ行き業者さんと打ち合わせ。オプションやらナンやらやっているうちに思っていたよりも高くなってしまい、ちょっと誤算だったかなと思う。でも決めてしまったこと仕方がない。帰宅して休み明日の湯棺、通夜に備える。

翌日は昼過ぎにお寺に到着。湯棺なるものを体験する。要するにお風呂に入ってもらってみんなで洗ってあげること。大の風呂好きだった義父にはとても良かった。家族皆んな喜んでもらって良かった。死装束に着替えてもらって準備完了。
18時よりお通夜が始まる。基本的には身内だけで義妹の会社の方が1名いらっしゃった。名古屋から来ていただいた親戚もいて終了後ささやかな食事をしながら思い出を話する。
義母と義妹は泊まるつもりだったようだが、無理に泊まることもないだろうとのことで帰宅。僕らもタクシーを呼んで一旦帰宅した。

その翌日は告別式。朝タクシーを呼んでお寺へ。名古屋から義伯母、義従兄、大阪から父、また義父の友人などを迎え告別式へ。そのまま連続して初七日をを行い、桐ヶ谷斎場へ。非常に新しくきれいな焼き場でびっくりする。昨年の義伯父のお葬式で行った名古屋の八事斎場と比べても格段に上等。焼いた後の骨を見るのがみんな不安だったのだが、非常にきれいな骨で悲壮な気持ちにはならずに住んだ。八事での義伯父のときは姿が残っていて、頭蓋骨も残っているのを焼き場の人が割って骨壷に入れて見ていて居たたまれなかったが今回はそういうことは全くなく、きれいに骨になっていて良かった。体格の良い人であったし、肺以外はしっかりしていたこともあり、骨も非常に詰まったきれいなもので、結果骨壷に収まりきらないほど一杯であった。

お寺へ戻ってから精進落としの会食を身内で行う。妻が挨拶に立ったが、驚くほどうまく思いを言葉にしていて驚いた。いわく「まっすぐに生きた人、不器用だったけど自分を貫いて、最後まで病気と闘い、天晴れであった」。昨夜遅く一緒に義父のことを思い出しながら話をしたのだが、それらのエッセンスをうまく表現していた。義妹も後で「お姉ちゃんの挨拶良かった」と言っていた。

僕も今までのことをここ数日色々思い出していた。初めて妻の実家へ行ったとき、結婚の許しを得に行った時、結婚後遊びに行った時、マレーシア赴任前に3ヶ月居候されてもらったとき、いつも妻の家族の中で義父が一番話をしていてしっくりくる人だった。どこか似ているところがあったかもしれない。

とても正直でまっすぐな人。
曲がったことが嫌いで、相手構わず注意する昔ながらの「オヤジ」。

19回もの入院を繰り返したが、間質性肺炎がわかってからの1年半の闘病生活、お医者さんとも蜜にコミュニケーションしながら、どう病気と闘うかを決め、義母のことも考え、いよいよ危なくなったときにずるずると意識もなく長く入院したりすることのないよう、医学的延命処置を拒否する書類を作成し、お医者さんと合意をして最後の入院生活を送ったこと。
本当に立派だったと思う。

そして7月5日の朝、急変し、苦しみを和らげるためモルヒネを打ってもらって意識も朦朧としている中、妻、子供、孫が揃うまで待ち続けた意志の強さ、そしてみんなが揃うまで待てた満足感を顔の表情に湛えて旅立っていった最期。

人として「生きる」ことは、社会的地位を追い求めたり、お金持ちになることを追い求めたりすることではなく、「人として正しく生きる」、それをどれだけできたかで最後に満足できる人生だったかどうか、自分自身が納得いくのではないだろうかと思った。
最後に大切な事を義父に教えてもらった気がする。

僕はとても義父のように立派に生きられるとは思わない。正しさよりもその場を穏便に済ませることを優先することもある、そんな人間だ。
でも一歩でも義父に近づけるように、ちょっとでもそんな生き方したいと心から思った。

2011年7月4日月曜日

妹尾河童さんの影響大だったことに気がついた

休みや移動中に読むために、インド本を10冊以上買い込んでいるのだが、ふと手に取った「河童が覗いたインド」が面白い。
好奇心旺盛で試してみないと気が済まないその旅の仕方、達人河童さんにまでは及ばないが自分もシンパシーを感じてしまう。

あまりにも長い間河童さんの本を読んでいなかったので忘れてしまっていたが、小学校高学年の頃、「河童が覗いたヨーロッパ 」が大好きで、何回も読み返していたことを思い出してしまった。「欧州のホテルに泊まって、列車に乗って僕も旅したい!」とすごく憧れた。まだまだ素直だったあの頃に読んでいただけにすごく影響が残っているのかもしれない。

小学校から中高生まではとてもインドに行けるたくましさは僕にはなかったけど、大学で一人暮らしをして、また山にも登るようになりずいぶん悪環境への耐性ができて、大学4年生の時のタイ行きではかなり好奇心旺盛な行動も旅の中で少しはでき、アジアの魅力も感じられるようになった。(小学校6年生のときは浅草もゴチャゴチャしてて嫌で、あの頃の僕だとアジアはダメだった)
そんな流れが、後のマレーシア駐在、そして今のインド駐在につながっている気がする。
そういう意味では、妹尾河童さんの著作は僕の原点を作っている本かもしれない。

2011年7月3日日曜日

包装関係の展示会@ハイデラバード

ハイデラバードのHitec CityにあるExhibition Centreでの包装関係の展示会へ行った。まずこのExhibition Centreがマトモ。

MumbaiのボロっちいExhibition Centreとは大違いだ。さすがHitec City。余談だがHitec CityにはGoogleなどIT企業のカッコイイデザインのビルが並んでいてインドとは思えない場所。

肝心の展示会だが、3ホールを使ったものでかなりの規模。9時に始まると聞いていたが実際始まったのは10時(さすがにそこはインド)で、1ホール見るのに1時間半くらいかかり結局空港へ行く2時までほぼ4時間見っぱなし。
相当安そうな機械から、まあまあマシそうなものまでバラエティに富んでいるが、どこもそれなりの規模で7割くらいはインド現地で生産はしているようで、市場としてはかなりあるということが肌で感じられたことが収穫。ちなみに輸入ものはほぼ100%中国製の機械で、機械装置としての競争力も中国はもはや新興国ではダントツな感じだ。(コストという意味で)

これからやることがものすごくたくさんあるということを、改めて実感した。

2011年7月2日土曜日

ハイデラバードはムスリムの街

展示会の視察に週末ハイデラバードに来たが、せっかくなので半日はハイデラバードの街を見てまわることにする。空港でクルマを6時間の約束で借りる。2100ルピー、ちょっと高いけどまあ良いか。

まずは空港から郊外にある昔のお城「Golconda Fort」へ。16世紀の城跡なのだが大きな岩がゴロゴロしている丘をそのまま岩ごと利用して城を建ててしまった感じ。かなり強固な城だったようだが最後はイスラム教のムガール帝国に攻められ落城したようだ。大枚(?)500ルピーをはたいたガイドさんが説明をしてくれる。


西洋の城ではこんなに自然を利用したまま作ってしまうだろうか?とどこか東洋的な文化を感じる。僕はなかなか好きだな。
内側の城壁が3km,外側の城壁は7kmにも渡る壮大なスケールで本丸に当たる場所まであがるとそれらが一望に見えてなかなかの景色。デカン高原の真ん中にあるハイデラバードは周辺も岩ごろごろな場所だというのがよくわかる。


何段もの階段を上り本丸まで行き、さらに急な段を降りてきたせいか足がかなり疲れた。待たせてあったクルマに乗って、街中へ。


ハイデラバードを代表する建物のChar Minarに行ったが周辺に駐車場がなく、また次に行こうとしていた博物館の最終入場時間も迫ってきたので、クルマから眺めるだけ。形は4つの尖塔のあるイスラム様式だが思いっきりイスラム風下町のど真ん中にそびえ立っていて、なんか通天閣的な存在?串揚げ屋の代わりがカバブ屋だったりして。さすがにムスリムが多いとアルコールはないだろうけど。

デリー、コルカタとならぶ3つの国立博物館の一つがハイデラバードにありそれを見る。Solar Jung Museumという名前でこれは英国植民地時代もしたたかに自治権を離さなかったハイデラバード藩王国のSalr Jungから来ているらしく、当時のインドでも最も豊かな場所だったようで世界中の美術品が集められている。ちなみにインド人がみんな「イギリス人に盗られた」という有名なダイヤモンド"Kohinor"(英国国王の王冠に入っている)も元々はハイデラバード藩王国の持ち物だったようだ。
ただ外国人である僕から見ると、世界中の美術品よりはインドの絵とか像が集められているデリーの博物館の方が面白かったな。

博物館の周辺は川に沿って椰子の木がたくさんあり、すごく立派なイスラム建築がいくつか見えていて、インドというよりは中東っぽい雰囲気がかなりする。そういう意味では個性的な街だ。


ところがホテルを取っていた"Hitec City"に近づくに連れ、Tata ConsultancyやGoogleなどIT企業が立ち並ぶモダンなビジネス街へと変貌していた。ムンバイよりよっぽど綺麗、同じくIT企業のあるGurgaonよりもすごいかも。まだ見てないがBangaloreに近いものがありそうな気がする。このへんの道路も立派なものだし、さすが昔反繁栄を誇ったというハイデラバード、侮りがたし。